Jeb Loy Nichols

ジェブ・ロイ・ニコルズさん(Jeb Loy Nichols)。 優れたシンガー・ソングライターであると同時に、味わい深い作品を残してきた木版画家でもあります。
そして、おそらく「ユルい」という形容詞が市民権を得る前からそれを実践してきた人物でもあります。
ジェブとの出会いは、2002年リリースの『easy now』。鼻声ヴォーカルが文字通りユルいです。でも、そこにわざとらしさなどなく、フツーに発声したらこうなったという極めて自然体のスタイルにはまりました。
で、最新作の『Long Time Traveller』。レゲエです。
彼自身曰く、
「このアルバムはカントリー色の強いものになるはずだった。でも、音を聞いているうちに70年代のレゲエに近い気がしてね。オールドスクールな雰囲気に仕上げることを意識しながら制作したんだ。そもそも、ぼくはレゲエとカントリーとの間に共通性を感じていたんだ。」
なるほど聴いて納得のコメントです。
決して派手さはありませんが、じんわりと染み入る好盤です。

Luchino Visconti

ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)は私が敬愛する映画監督のひとりであるが、つい先日、植草甚一さんのエッセイを読んでいて、彼がイタリアの「貴族」であることを初めて知った。それでふと合点がいったのだけれど、そういう出自というか素地がなければ、あのような退廃の美しさは生まれなかっただろう。『家族の肖像』しかり、『ベニスに死す』しかりである。映像の中に表現される重厚なディテールは彼のように選ばれた者にしか表現しえないものなのだろう。
そんな彼にはルイジとエドゥアルドという兄弟がいるらしい。エドゥアルドは大実業家で、イタリア第二の薬品工場を経営しており、一番うえのルイジは競馬騎手として優勝カップを400個も獲得したというスポーツマンとのことである。これだけでもヨーロッパの名門貴族の生き方が垣間見えて面白い。
こういった恵まれた背景を持ちながら、最晩年まで表現者としてあり続けた彼の精神に私はいたく感銘を受ける。彼とはまったく異なる領域で活躍した音楽家の言葉がいみじくもルキノ・ヴィスコンティの生き方を代弁しているかのようなので最後に引用しておこう。
『音楽会に来る人たちのなかには、そとで食事をするのをひかえたり、ネクタイを買わないで切符を手に入れる人がいるのです。そういう聴衆を満足させるためには、テクニックだけでなく、人間的な楽しみをあたえなければなりません』。
これはジュリアード音楽院で40年もの間、ピアノを教え続けたロジナ・レービン女史の言葉である。
出典:植草甚一スクラップブック『アンクルJの雑学百科』晶文社、p104、p164

The Boxer – Shuji Terayama

最近読んだお気に入りの本から一冊ご紹介します。タイトル『あゝ、荒野』(寺山修司著、PARCO出版)。 『あゝ、荒野』の最終章は、こういうくだりで始まる。 「新次はリングに上るとガウンのままで観客に挨拶した。 白いガウンの背には十七の星がマジック・インクの赤で記されてあった。十七というのは、彼が今までに倒した相手の数である。もし、今日勝てばまた星が一つ増えることになるだろう。この彼のガウンの星条旗から連想して彼のことをアメリカン・ボーイと呼ぶ記者もいたが彼は一向に気にとめなかった。彼にとって試合は人生の燃焼だったにしても「勝利」はただのデザインにすぎなかったからである。」 そんな彼の今日の相手は昔なじみのボクサー〈バリカン〉であった。少し前までは同じジムに所属するいわば同期生であったのだが、当時から〈バリカン〉は新次のことを「兄貴」と慕い、彼の近くにいることで幸運にありつけるような「偶然」がわき上がってくることを日に日に待ちわびていているような、どこかボクサーとしての資質が欠けているような存在だった。ボクサーになったのも、もとはといえば「吃り」を矯正するためだった。あるボクシング・ジムのチラシに書かれた「弱き者よ、来れ!」という文句を見つけ、自分が吃るのは弱さのせいだと知っていた〈バリカン〉はそこでジムへの入門を決意する。そこで出会ったのが新次というわけである。 ボクサーとしての野性味あふれる新次は、映画のボクサー役としても目を付けられてゆく。リングサイドで彼の戦いを見つめる監督とプロデューサーの会話からはこんな声が聞こえてくる。「あいつはフィルターつきの煙草の味がわからん奴だ」「何でも直接的じゃないと気がすまないんだ」「ソフィスティケートの理解できない男さ」「つまり、煙草で言えばピースだな。直接の平和ってやつだ。現在形の刺激ばかり求めているんだ」「そうそう、あいつはピースであってホープじゃないよ。ワン・クッションおいて希望するといった理性的なことは出来ない男だ」。 一方の〈バリカン〉はといえば、サンド・バッグに新次の写真を貼りつけ、毎日それを殴りつけることで「憎しみ」を育もうとした。しかし、〈バリカン〉は失敗した。不運にも〈バリカン〉には実社会であれ、虚構の世界であれ、「憎しみ」という感情を持つことなど無理な宿題だったのだ。そんなふたりが直接対決することになった。 ゴングと当時に試合は一方的な流れになった。〈バリカン〉は新次のパンチを浴びせ続けられる。「吃り」というコンプレックスを抱えた〈バリカン〉にとって、パンチの雨はあたかも新次が自分に話しかけてくれるているような錯覚に陥る。しかし、新次のことばは彼の肉体に痛みとなって伝達されるだけであって、意味として浸透してはくれない。 十発、二十発、三十発、四十発、五十発、俺はとうとう「憎む」ということが出来なかった一人のボクサーです、六十発、七十発、俺はまだ醒めている。俺はちゃんと数をかぞえることも出来る。俺はみんなが好きだ。俺は「愛するために、愛されたい」八十発、九十発…。 小説の最後のページは、〈バリカン〉の死亡診断書で締めくくられている。ボクサーとしての〈バリカン〉は死んだが、「憎むことのできない」〈バリカン〉はすぐそこにいるような気がしてならない。