english / japanese
beloved everyday stuff

水性ペン ピグメントライナー 0.05mm / 0.1mm / 0.2mm / 0.3mm / 0.5mm / 0.8mm(ステッドラー)
スイスカラー色鉛筆 40色セット 缶入(カランダッシュ)
クーピーペンシル 60色(サクラクレパス)
ラピッドプロ シャープペンシル ブラック 0.5mm + 替芯 0.5mm B(ロットリング)
ラピッドプロ ホルダー ブラック 2.0mm + 替芯 2.0mm 2B(ロットリング)
鉛筆削り エンゼル5 ロイヤル(カール事務機)
アルシュ水彩紙パッド 230×310mm 極細 300g/m2(キャンソン)


anyone who says they have only one life to live must not know how to read a book. – author unknown

069 - 江戸川乱歩(2008)『江戸川乱歩傑作選』新潮社
068 - 最果タヒ(2016)『少女ABCDEFGHIJKLMN』河出書房新社
067 - ロラン・バルト(1997)『明るい部屋 - 写真についての覚書』みすず書房
066 - 多木浩二(2004)『死の鏡 - 一枚の写真から考えたこと』青土社
065 - 最果タヒ(2014)『死んでしまう系のぼくらに』リトルモア
064 - 岸田衿子さく、中谷千代子え(1962)『かばくん』福音館書店
063 - Gerry Lopez(2016)『SURF IS WHERE YOU FIND IT』Patagonia
062 - Takashi Homma(2015)『Seeing Itself』太宰府天満宮
061 - 菅付雅信(2016)『写真の新しい自由』玄光舎
060 - ジョナサン・コット(著)、木幡和枝(訳)(2016)『スーザン・ソンタグの『ローリング・ストーン』インタヴュー』河出書房新社
059 - 高山なおみ(2011)『高山ふとんシネマ』幻冬舎
058 - ワタリウム美術館(2011)『草間彌生、たたかう - KUSAMA'S BODY FESTIVAL IN 60'S』ACCESS
057 - 小尾 淳介(2016)『OUTSIDE CALIFORNIA』トゥーヴァージンズ
056 - 石内都(2016)『写真関係』筑摩書房
055 - 森山大道(2015)『犬と網タイツ』月曜社
054 - 石川直樹(2016)『僕の道具』平凡社
053 - サイモン・ガーフィールド(2014)『オン・ザ・マップ - 地図と人類の物語』太田出版
052 - アラステア・ボネット(2015)『オフ・ザ・マップ - 世界から隔絶された場所』イースト・プレス
051 - 土門拳(2012)『死ぬことと生きること』みすず書房
050 - 長新太(1998)『ゴムあたまポンたろう』童心社
049 - 工藤直子(1984)『ともだちは海のにおい』理論社
048 - 工藤直子(2008)『ともだちは緑のにおい』理論社
047 - 大塚いちお(2010)『MAGIC!』誠文堂新光社
046 - 原島恵 ほか(2015)『長新太の脳内地図』東京美術
045 - 川内倫子(2001)『うたたね』『花火』リトルモア
044 - 奥山由之(2015)『BACON ICE CREAM』PARCO出版
043 - 伊丹十三(2005)『ヨーロッパ退屈日記』新潮社
042 - 村上龍(2004)『69 sixty nine』集英社
041 - 村上龍(1976)『限りなく透明に近いブルー』講談社
040 - 篠原勝之(2015)『骨風』文藝春秋
039 - 東松照明(著)、伊藤俊治(編集)、今福龍太(編集)(2015)『新編 太陽の鉛筆』赤々舎
038 - ジャン=フランソワ・ルパージュ Jean-François Lepage(2015)『MOONLIGHT ZOO』PRESTEL
037 - 村上春樹(2015)『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング
036 - 荒木経惟(2011)『完全版 写真ノ話』白水社
035 - 中村とうよう(1986)『大衆音楽の真実』ミュージック・マガジン
034 - ルイジ・ギッリ(2014)『写真講義』みすず書房
033 - 森山大道(2001)『犬の記憶』河出書房新社
032 - 森山大道(2006)『昼の学校 夜の学校』平凡社
031 - 森山大道(2007)『ハワイ』月曜社
030 - 森山大道(2014)『ニュー新宿』月曜社
029 - spectator(2015 Vol.33)『クリエイティブ文章術』エディトリアル・デパートメント / 幻冬舎
028 - ポール・ランド(2014)『ポール・ランドのデザイン思想』スペースシャワーネットワーク
027 - 森山大道(2014)『通過者の視線』月曜社
026 - 酒井駒子(1999)『よるくま』偕成社
025 - 穂村弘(2002)『世界音痴』小学館
024 - Ellsworth Kelly(2011)『Ellsworth Kelly : Self-portrait Drawings 1944-1922』Matthew Marks Gallery, New York
023 - Ellsworth Kelly(2011)『Ellsworth Kelly Wood Sculpture』MFA Publications, Boston
022 - cochae(2010)『kokeshi book 伝統こけしのデザイン』青幻舎
021 - 又吉直樹(2015)『火花』文藝春秋
020 - 谷川俊太郎、川島小鳥(2014)『おやすみ神たち』ナナロク社
019 - 石山修武(2010)『生きのびるための建築』NTT出版
018 - 伊丹十三(2005)『問いつめられたパパとママの本』新潮社
017 - 開高健(2008)『一言半句の戦場 - もっと、書いた!もっと、しゃべった!』集英社
016 - 谷川俊太郎、山田馨(2010)『ぼくはこうやって詩を書いてきた - 谷川俊太郎、詩と人生を語る』ナナロク社
015 - 石上純也(2010)『建築のあたらしい大きさ』青幻舎
014 - 金村修(2009)『漸進快楽写真家』同友館
013 - Laura S. Dushkes(2013)『the ARCHITECT says - 建築家から学ぶ 創造を磨く言葉たち』ビー・エヌ・エヌ新社
012 - Yoshitomo Nara(2003)『the good, the bad, the average ... and unique』リトル・モア
011 - 鈴木心(2009)『てんきごじてん - 風・雲・雨・空・雪の日本語』ピエ・ブックス
010 - 原子朗(2013)『定本 宮澤賢治語彙辞典』筑摩書房
009 - 南伸坊、糸井重里(2009)『黄昏』東京糸井重里事務所
008 - ロバート・ヘンライ(2011)『アート・スピリット』国書刊行会
007 - ジョージ・ロイス(2012)『世界を変えた伝説の広告マンが語る大胆不敵なクリエイティブ・アドバイス』青幻舎
006 - キット・ホワイト(2012)『アートスクールで学ぶ 101のアイデア』フィルムアート社
005 - John Szarkowski(2002)『William Eggleston's Guide』The Museum of Modern Art, New York
004 - William Eggleston(2013)『2 1/4』TWIN PALMS PUBLISHERS
003 - Antonio Lopez(2013)『現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス展』美術出版社
002 - アイデア編集部(2014)『デザイナーインタビュー選修 - グラフィック文化を築いた13人』誠文堂新光社
001 - 稲田茂(2013)『たのしい書き文字2100 - 日本字フリースタイル・コンプリート』誠文堂新光社


the secret of your future is hidden in your daily routine. - mike murdock

日々のルーティン。 デジタルに依存しすぎない。季節を味わう。オーガニックなスタイルを意識する。1日5分間でかまわない。夢中になっていることに没頭する時間をつくる。tumblrは、ほどほどに。顔を洗う。ペンハリガンの香りに身を委ねる。時々、海へ出かけ、リセットする。完璧な整理整頓は目指さない。中庸の整理整頓。休日は外出して外の空気に触れる。1日の中で「ひとり」の時間をつくる。人の温もりが感じられるものに身銭を惜しまない。森山大道の写真と戯れる。アンリ・ルソーの色に熱中する。リチャード・ディーベンコーンのストラクチャに心奪われる。土田麦僊のテンペラ画『ヴェトゥイユ風景(landscape of vetheuil)』はここ数年求めていた絵画、やっと出会うことができたという印象。同時代性または一歩先の視点を感じる雑誌の特集には目を通す。ココアが好きだ。アイラモルト、とりわけラフロイグ(LAPHROAIG)が好きだ。
それから、ホワイトセージ(white sage)の香り。秀逸だ。


i could spend all day long admiring the works of the following people.

写真家
マーティン・パー。野口里佳。アウレック・ソス。ガリー・ウィノグランド。ロニ・ホーン。スティーブン・ショア。畠山直哉。ホンマタカシ。ウィリアム・エグルストン。川内倫子。奥山由之。ピーター・リンドバーグ。ステファン・クチュリエ。東松照明。リチャード・ミズラック。石内都。アレッサンドラ・サンギィネッティ。柴田敏雄。

画家・版画家
アンリ・ルソー。エドヴァルド・ムンク。エルズワース・ケリー。デイヴィッド・ホックニー。バーネッ ト・ニューマン。アントニオ・ロペス・ガルシア。ジョルジョ・モランディ。アレックス・カッツ。 レイチェル・ハリソン。浜口陽三。ピエール・ボナール。リチャード・ディーベンコーン。

彫刻家
コンスタンティン・ブランクーシ。ハンス・アルプ。アレクサンダー・カルダー。

建築家・ランドスケープアーキテクト
アルヴァロ・シザ。west8。マウントフジアーキテクツスタジオ。ヴィール・アレッツ。キャサリン・グスタフソン。アレハンドロ・アラベナ。RCRアーキテクツ。リナ・ボ・バルディ。バロッツィ・ヴェイガ。

インスタレーション作家
川俣正。ゴードン・マッタ・クラーク。

映像作家
ヴィクトル・エリセ。ウッディ・アレン。ペドロ・アルモドバル。アキ・カウリスマキ。大島渚。

小説家・詩人
フェルナンド・ペソア。イタロ・カルヴィー ノ。開高健。谷川俊太郎。梶井基次郎。江戸川乱歩。リチャード・ブローティガン。野坂昭如。

俳優・女優
ペネロペ・クルス。キャリー・マリガン。

デザイナー、アートディレクター
カレル・マルテンス。リチャード・ハッテン。葛西薫。服部一成。

イラストレータ
酒井駒子。長新太。

ミュージシャン
ヘラルド・ヌニェス。ライル・リッツ。アルヴォ・ペルト。ライ・クーダー。ティト・プエンテ。ギヤ・カンチェリ。キース・ジャレット。アレサ・フランクリン。バーデン・パウエル。ベイルート。バーナード・フォート。バディ・リッチ。カル・ジェイダー。チェット・ベイカー。カウント・ベイシー。エラ・フィッツジェラルド。エミルー・ハリス。ギャビー・アンド・ロペス。ジーン・バートンチーニ。ジルベルト・ジル。ジョバンニ・ミラバッシ。ゴンザレス。ハロルド・ランド。ザ・ハイ・ラマズ。ホープ・サンドバル。イン・ザ・カントリー。ジェブ・ロイ・ニコルズ。ジミー・ジュフリー。ジョー・ヘンダーソン。ケニー・ドリュー。レオ・コッテ。レオ・コトキー。小野リサ。ロウ。メアリー・ゴーサー。マイケル・キワヌカ。マイク・オールドフィールド。マイルス・デイヴィス。ミルト・ジャクソン。ミニー・リパートン。ナラ・レオン。ナタリー・マーチャント。ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセン。ニルス・ペッター・モルヴェル。ニーナ・シモン。小栗栖憲英。ラルフ・マクテル。サミー・デイヴィスJr.。セルジュ・ゲンスブール。サイモン&ガーファンクル。スタンリー・カウェル。スザンナ・ヴァルムルー。UA。ザ・ウィーピーズ。

サーファー
ジェリー・ロペス。


life itself is a quotation. -jorge luis borges

写真が一個の芸術作品として人の胸を打つためには、結果的には画面から切捨てられてしまう空間、色、時間などといった要素を、できるだけ画面の中に含む(暗示する)ものほどいいと思う。それを意識的に追求することも、また新しい風景写真にとっての重要な課題である。つまり、それ(暗示)なくては写真というものは、単なる白と黒と灰色のパターン(絵模様)になってしまうのである。- 土門拳(2012)『死ぬことと生きること』みすず書房 p126

あらゆる芸術がそうであるように、芸術の最高の段階は、手段を忘れしめるところにある。つまり、写真が写真であることを、見る人に忘れしめるところにある。- 土門拳(2012)『死ぬことと生きること』みすず書房 p126

プロに憧れ、プロになりたがるアマチュアの頭に描かれているプロは、いわば建築家なのではなかろうか。公会堂、劇場、デパート、ビル、学校などの近代建築を設計管理する建築家ではなかろうか。ところが、現実のプロは、建築家ではなくて、大工なのだ。道具箱がわりにガャジッドバッグを肩に現場にゆき、日当がわりに写真代をもらって帰る大工なのだ。その辺にうようよいる写真家づらしたプロは、みんな、大工なのだ。- 土門拳(2012)『死ぬことと生きること』みすず書房 p126

これ、東京都現代美術館で並べたんだけど、おもしろかった。街角で出会った元気ないお父さんを笑わせて撮ったのと、人妻エロスをまぜこぜにするわけだけど、見ようによっちゃ、生き生きしてくるんだね。写真って、関係性だから。相手とアタシの関係性だし、写真Aと写真Bの関係性だし。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p141

何でいいのかなって、これはですね、やっぱりね、その二人がね、父親に娘二人、お互いが作り合った笑顔なんだよ。 お互いが作ったの。愛することによって、顔がいい顔になっていくわけ、ひとりのヤツはブスになってくからね、なるべくこう、そばに愛する人がいる、愛される人がいるっていう関係がないと、駄目なのよ。お孫さんと一緒のおじいちゃんとかさ、みんなイイんだね。だから、アタシと被写体になってくれてる関係より、やっぱり向こう側の人たちが作り合った関係のが、いい顔になんだな。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p148

写真を撮って感じるドキュメンタリーっていう感じ、気分はさ、現実とか現場とか、要するにルポルタージュ性がないと面白くないっていうことね。そのころから写真は「複写だ」って言ってきたけど、写真って、そういうことでしょ。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p159

土門拳だろうが木村伊兵衛だろうが、写真っていうか写真家っていうのは、もうドキュメンタリストじゃなくちゃいけないんだよね、実は。土門拳のように硬派に見せようが、木村伊兵衛のように軟派に見せようが、硬派に見せようが軟派に見せようが、どういう見せ方するにせよ、この二人がドキュメンタリーっていうような感じのことを示したわけですよ。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p168

それに似たような感じのことを現代美術だとか言ってやってるでしょう。でもね、オレはアートにしちゃ駄目だっていってるの。アートっぽいの好きだから、オレも写真に色を塗ったりなんかしてるけど、実は違うのよ。やっぱりストーンって撮るのがいい。ある意味でストレートな気持ちとか素直な写真の気持ちでやんないと、駄目なんだよ。そういう素直な気持ちのほうが絶対アバンギャルドなんだから。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p177

でもねぇ、外国人たちって不思議だよね。映像なんてやっぱり曖昧だなあって思うのよ。とくに絵なんてそう思うんだよ。写真のが曖昧度がすくないでしょ。もう信用あるからさ。現実が強いっていうようなことがいえるし。でも、絵だと現実はまったくないからね。描かれた絵の世界は幻なんだから。信用度は写真のが絵よりもあっから、共通言語としては写真のほうが通じるっていうようなことがあるわけだよ。絵だと、漠然とした感性を伝えるくらいで、具体的じゃないだろ。そういうところでオレの写真が外国人に伝わったのかもしんないなぁ。ひとつの言葉として受け取ってもらえたのかもしれない。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p181

今日はさ、たまたまドキュメンタリーっていう話になったけど、写真っていうのは被写体の動きをいったん止めることだからね。いつも言ってるけど、それは「死」だよね。写真は被写体をいったん殺すわけですよ。それをこんどは生き返らせるようにするっていうのが写真の行為というか、写真のコトでしょ。ドキュメンタリーなことっつうか、ドキュメンタルなことなの。そうしないと被写体が死んじゃうし、写真も死んじゃう。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p187

一点作品にしようなんて意識はもうないんだ。一点無駄なしっていうようなへっぴり腰は駄目なの。ガンジーの火葬に行って撮ったその一点が名作だとか、そういうんじゃないんだよ。ブレッソンさん、ごめんなさい。たとえば、ガンジーの火葬に行くときにぶつかったインドの女のデカイけつとかさ、そういうようなことまで含めないと駄目なんだよ。面白くないんだよ。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p195

海って、人がいないと永遠みたいに見えるでしょ。なんか、暗くてさぁ。でも、違うんだよ。みんな、永遠に、う〜んって存在させる写真にしたがってけど、そんなの駄目だって。存在感と永遠性のある写真なんて、駄目だって。見たらそんときで終わりですぐ忘れちゃうんだけど、なんかのときにふっと心に浮かんでくる写真がいいの。- 荒木経惟(2011)『写真ノ話』白水社 p203

”写す”ということへの、いくばくかの強迫観念を抱えながら、都市の路上を撮り歩く日々が、いわばぼくのルーティン・ワークである。むずかしいことだけど、生きているという実際の内訳にはひとまず立ち入らないようにして、さし当たって”写す”という気分が、いまのぼくの写真とのスタンスである。路上という外界世界は、決して予断を許さない場所だから、できるだけ思惟や意味に捉われないようにと心掛けて、ただ街をキャンディッドにスナップするだけが、唯一ぼくにとっての写真なのだと、いつの頃からか決めてしまった。- 森山大道(2014)『通過者の視線』月曜社

オリジナリティ神話が形だけのものになったいま、模倣の世界を「編集的態度」と呼び換えてみたほうが健全な可能性が獲得できると僕は考えています。- 石山修武(2010)『生きのびるための建築』NTT出版 p.211

自分がニセモノであること、自分がその本物の一流性に対してセカンドクラスであるということを、とことんわかった人は、一流になります。つまらないプライドや知性では、それはなかなかに獲得できません。- 石山修武(2010)『生きのびるための建築』NTT出版 p.227


i love the essay. it's my favorite genre to work in. -meghan daum

ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)は私が敬愛する映画監督のひとりであるが、つい先日、植草甚一さんのエッセイを読んでいて、彼がイタリアの「貴族」であることを初めて知った。それでふと合点がいったのだけれど、そういう出自というか素地がなければ、あのような退廃の美しさは生まれなかっただろう。『家族の肖像』しかり、『ベニスに死す』しかりである。映像の中に表現される重厚なディテールは彼のように選ばれた者にしか表現しえないものなのだろう。
そんな彼にはルイジとエドゥアルドという兄弟がいるらしい。エドゥアルドは大実業家で、イタリア第二の薬品工場を経営しており、一番うえのルイジは競馬騎手として優勝カップを400個も獲得したというスポーツマンとのことである。これだけでもヨーロッパの名門貴族の生き方が垣間見えて面白い
。 こういった恵まれた背景を持ちながら、最晩年まで表現者としてあり続けた彼の精神に私はいたく感銘を受ける。彼とはまったく異なる領域で活躍した音楽家の言葉がいみじくもルキノ・ヴィスコンティの生き方を代弁しているかのようなので最後に引用しておこう。
『音楽会に来る人たちのなかには、そとで食事をするのをひかえたり、ネクタイを買わないで切符を手に入れる人がいるのです。そういう聴衆を満足させるためには、テクニックだけでなく、人間的な楽しみをあたえなければなりません』。
これはジュリアード音楽院で40年もの間、ピアノを教え続けたロジナ・レービン女史の言葉である。
出典:植草甚一スクラップブック『アンクルJの雑学百科』晶文社、p104、p164 ジェブ・ロイ・ニコルズさん(Jeb Loy Nichols)。 優れたシンガー・ソングライターであると同時に、味わい深い作品を残してきた木版画家でもあります。 そして、おそらく「ユルい」という形容詞が市民権を得る前からそれを実践してきた人物でもあります。
ジェブとの出会いは、2002年リリースの『easy now』。鼻声ヴォーカルが文字通りユルいです。でも、そこにわざとらしさなどなく、フツーに発声したらこうなったという極めて自然体のスタイルにはまりました。
で、最新作の『Long Time Traveller』。レゲエです。
彼自身曰く、
「このアルバムはカントリー色の強いものになるはずだった。でも、音を聞いているうちに70年代のレゲエに近い気がしてね。オールドスクールな雰囲気に仕上げることを意識しながら制作したんだ。そもそも、ぼくはレゲエとカントリーとの間に共通性を感じていたんだ。」
なるほど聴いて納得のコメントです。
決して派手さはありませんが、じんわりと染み入る好盤です。 気分が沈んでいるとき、カタルシスを求めてダウナーな音楽を聴くか、片や対照的にポップな音楽で自らを高揚させるか、人によって大きく分かれるところだろう。
私の場合、メランコリックな気分に陥ったときはほぼ前者の行動をとる。
しかしこのような行動パターンはいまの病気に端を発しているわけではない。
メランコリックな状態にあることが単純に好きなのだ。
要するに、私は自己愛人間であり、ナルシストということになる。
このような習性は厄介だけれども持って生まれた性分だからいかんともし難い。
おまけに執着心が強いときているから、周囲からしてもまったくもって疎ましい存在にちがいない。
さて、自分の性格ばかり並びたてても面白くないので、ここはひとつ最近聞いたお気に入りのアルバムをひとつ挙げておくことにしよう。
アーティスト:ホープ・サンドヴァル(Hope Sandoval & The Warm Inventions)。
アルバムタイトル:バヴァリアン・フルーツ・ブレッド(Bavarian Fruit Bread)。
この中の一曲『On the Low』が映画『sprout』のサントラに使われていたのを見つけて、このアルバムに辿り着いたという次第である。その曲のヴォーカルとメロディーからアルバム全体の構成をダウナーなものと勝手に想像していたのだけれど、その予想をはるかに上回る内容だった。
冒頭に、「ダウナーかポップか」という大雑把なくくりをしたけれど、そんな自分がちょっと恥ずかしくなった。というのも、このアルバムはダウナーであるばかりでなく、ポップの要素も多分に盛り込まれ、それがちょうどいい具合にミックスされている。
両者は同根のニ輪の花であることを見事に証明してくれた。
ゲストも多彩で、私の愛するレーベル、ルーネ・グラモフォン(rune grammofon)からアルバムをリリースしているノルウェーのトランペッター、アルヴェ・ヘンリクセン(arve henriksen)の参加をはじめ、トラッド・フォーク/音響/テクノ系前衛ジャズなどのミュージシャンが集結している。
ライナーノーツによれば、ホープ・サンドヴァルはオスロに自身のスタジオを所有しているらしい。そんなロケーションの効果もこのアルバムには表れているはずだ。
久しぶりにおいしいアルバムを手に入れた。 相変わらず秀逸なジャケットのアートワークに惹かれて「ルーネ・グラモフォン(rune grammofon)」のアルバムがまた一枚私のコレクションに加わった。 「イン・ザ・カントリー」というピアノトリオの作品がそれである。
アルバムタイトルは”This Was the Pace of My Heartbeat”。
なんとなくそそられるフレーズである。加えて、ジャケットのスリーブに書かれた「リリカル」という言葉に反応して(ちょうどセンチメンタルな気分もあってか)ついつい購入してしまった。
フリージャズのように自由で爆発していないと刺激が足りないのか、このところほとんどピアノトリオを耳にしていなかったし、実際に聞いてみるまでは正直なところあまり期待していなかった。
ところが「イン・ザ・カントリー」は従来のピアノトリオに対するイメージを「美しく」壊してくれた。
これまで「美しい」という形容詞を様々な対象に当てはめてきたけれど、これは「美しい」と呼べる新しい対象の発見である。
限りなく真空に近い空間の中でかすかに揺れる微細な音の波動をピアノという楽器で静かに爆発させているようだ。
それはジャズ、ロック、クラシック、エレクトロニカ、現代音楽といった様々な領域から影響を受け、それを自分のものにすることができた希有な存在のみが作り出せる音だろう。
モッテン・クヴェニルという男が「イン・ザ・カントリー」の中心人物らしいが、今回のアルバムでは11曲中9曲が彼の作曲からなる。
ルーネ・クリストファーシェンのライナーノーツによれば、彼はキース・ジャレットは聴かなかったけれど(笑)、ポール・ブレイやモートン・フェルドマン等をさかんに聴き、影響を受けてきたという。
アルバムの最後に収められている曲はヘンデルの『涙が流れるままに』をベースに彼が編曲したものであるが、この「美しい」アルバムのラストを飾るにふさわしい出来映えだと思う。 友人に紹介されて聞きはじめた「カエターノ・ヴェローゾ」。
『ユリイカ』のバックナンバーで本人の特集号が発刊されていることを見つけ、早速取り寄せる。
このことをきっかけに、にわかにブラジル音楽に対する熱が高まってきている。
思い起こせば、ECMレーベルの音源をさかんに蒐集していたころ、ナナ・ヴァスコンセロス、エグベルト・ジスモンチなどを通じてブラジルの音には接していたし、なかんずくジョアン・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビン、バーデン・パウエルなどボサノヴァ最強軍団は当然ながら耳にしていた。
しかし、どうして「カエターノ・ヴェローゾ」には辿り着かなかったのだろう。
ポピュラー音楽にくくられるから?
失った時間を取り戻そうと、必死になって彼の音楽を聴いている(必死になって聴く音楽ではないのだけれど)。
先の『ユリイカ』に掲載されているディスコグラフィーを参考にしながら、とりわけ名盤と呼ばれているアルバムから少しずつ集め始めている。
同じ『ユリイカ』の中で、中原仁さんのインタビューにこたえて、ジルベルト・ジルのことを「ぼくの先生のようだ」と評している言葉が目にとまった。ならば、今度はジルベルト・ジルを聴くしかない。
私が最初に手にしたアルバムは『Gil e Jorge(ジルベルト・ジルとジョルジ・ベン)』。最初にこのアルバムに出会えたことは幸運だった。
タイトルが示す通り、二人の共演盤である。両者のボーカルとギターを互いに交差させながら淡々と進行してゆく。そこにはブラジルという土着性とコスモロジー的な浮遊感に満ちあふれた空間が見事に演出されている。
しかしそれは計算されたものではなく、ふたつの稀有な才能の邂逅そのものである。聴く者に緊張感を強いることなく、豊かなミニマリズムが実現されている。 最近読んだお気に入りの本から一冊ご紹介します。タイトル『あゝ、荒野』(寺山修司著、PARCO出版)。
『あゝ、荒野』の最終章は、こういうくだりで始まる。
「新次はリングに上るとガウンのままで観客に挨拶した。
白いガウンの背には十七の星がマジック・インクの赤で記されてあった。十七というのは、彼が今までに倒した相手の数である。もし、今日勝てばまた星が一つ増えることになるだろう。この彼のガウンの星条旗から連想して彼のことをアメリカン・ボーイと呼ぶ記者もいたが彼は一向に気にとめなかった。彼にとって試合は人生の燃焼だったにしても「勝利」はただのデザインにすぎなかったからである。」
そんな彼の今日の相手は昔なじみのボクサー〈バリカン〉であった。少し前までは同じジムに所属するいわば同期生であったのだが、当時から〈バリカン〉は新次のことを「兄貴」と慕い、彼の近くにいることで幸運にありつけるような「偶然」がわき上がってくることを日に日に待ちわびていているような、どこかボクサーとしての資質が欠けているような存在だった。ボクサーになったのも、もとはといえば「吃り」を矯正するためだった。あるボクシング・ジムのチラシに書かれた「弱き者よ、来れ!」という文句を見つけ、自分が吃るのは弱さのせいだと知っていた〈バリカン〉はそこでジムへの入門を決意する。そこで出会ったのが新次というわけである。
ボクサーとしての野性味あふれる新次は、映画のボクサー役としても目を付けられてゆく。リングサイドで彼の戦いを見つめる監督とプロデューサーの会話からはこんな声が聞こえてくる。「あいつはフィルターつきの煙草の味がわからん奴だ」「何でも直接的じゃないと気がすまないんだ」「ソフィスティケートの理解できない男さ」「つまり、煙草で言えばピースだな。直接の平和ってやつだ。現在形の刺激ばかり求めているんだ」「そうそう、あいつはピースであってホープじゃないよ。ワン・クッションおいて希望するといった理性的なことは出来ない男だ」。
一方の〈バリカン〉はといえば、サンド・バッグに新次の写真を貼りつけ、毎日それを殴りつけることで「憎しみ」を育もうとした。しかし、〈バリカン〉は失敗した。不運にも〈バリカン〉には実社会であれ、虚構の世界であれ、「憎しみ」という感情を持つことなど無理な宿題だったのだ。そんなふたりが直接対決することになった。
ゴングと当時に試合は一方的な流れになった。〈バリカン〉は新次のパンチを浴びせ続けられる。「吃り」というコンプレックスを抱えた〈バリカン〉にとって、パンチの雨はあたかも新次が自分に話しかけてくれるているような錯覚に陥る。しかし、新次のことばは彼の肉体に痛みとなって伝達されるだけであって、意味として浸透してはくれない。 十発、二十発、三十発、四十発、五十発、俺はとうとう「憎む」ということが出来なかった一人のボクサーです、六十発、七十発、俺はまだ醒めている。俺はちゃんと数をかぞえることも出来る。俺はみんなが好きだ。俺は「愛するために、愛されたい」八十発、九十発…。 小説の最後のページは、〈バリカン〉の死亡診断書で締めくくられている。ボクサーとしての〈バリカン〉は死んだが、「憎むことのできない」〈バリカン〉はすぐそこにいるような気がしてならない。 先日ご紹介したスペインの巨匠、ペドロ・アルモドバル監督(Pedro Almodovar)の三部作(『オール・アバウト・マイ・マザー』『トーク・トゥ・ハー』『ボルベール』)が「女性讃歌」とするならば、フィンランドの奇才、アキ・カウリスマキ監督(Aki Kaurismaki)のそれは、「敗者」の三部作(『浮き雲』『過去のない男』『街のあかり』)。
煙草、犬、不幸…。
カウリスマキ節炸裂の三部作は、もはや古典芸能の領域。作家のいとうせいこうさん曰く、「能」のようだと。
スクリーンの四方八方を、たんねんに絶望でぬりこめ、うすぐらい照明のもとでじわりと浮かび上がる原色の舞台セットと、焦点の定まらない役者の視線を毎回のことながら見せつけられ、その度に、「こんな男にはなりたくないなぁ」と思いながらも、なにかアカルい希望みたいなものを灯してくれる映像にずっと引き寄せられてきました。
そんなカウリスマキさんの作品に欠かせない重要な要素に「音楽」があります。
『過去のない男』でクレイジーケンバンドの歌が使われたように、カウリスマキさんの作品で流れる音楽は、骨太でロマンティックで、とにかくカッコイイ。演歌みたいな、歌謡曲みたいな、音源もSPみたいな、日本人には懐かしいサウンド(日本語で歌う「雪の降る街を」が流れたこともあり)で、フィンランド・タンゴのダルさ加減もグッドです。
映画を観るたびに「いいなぁ」と思っていたアキ・セレクトのサントラが、とうとう出ました。しかも2枚組!トータル140分超です。
人生の負けっぷりをするめのように味わえる、ダウナーなひとときを。 閑話休題。
ハマってます。アイラモルト
。 スコットランドにある小さな島、アイラ島で造られるウイスキー。島独特のピートや水などの影響で醸造される独特の深い味わいにやられっぱなしです。
「アートベッグ(ARDBEG)」や「ボウモア(BOWMORE)」あたりが割と入りやすい銘柄ですが、私は、あえて猛烈なスモーキーフレイバーとヨードの香りがたっぷりの「ラフロイグ(LAPHROAIG)」を愛飲しています(ほぼ毎日)。
短い夏の間にアイラ島の海辺で乾燥させ、海の香りが染み込んだピート香が絶品。
あまりに強い香りに挫折してしまう方も多いかと思いますが、実際に口にふくんでみると味わいそのものは意外とマイルド
。 洗練された麦芽の風味が長く続きます。
野性味あふれる味わいですが、プリンス・オブ・ウェールズ御用達の称号を賜った名品でもあります。
これからの季節、ストレートのロックがオツ。
「ラフロイグ」、いいですよ。 このところ夜な夜な聴いているアルバムがあります。いくら眠剤が処方されているとはいえ、なかなか入眠できないのがツライ。早く床に就きたいところですが、彼女の歌声が心地よい睡眠作用を引き出してくれるので、真夜中に、ひとり部屋で聴いている次第であります。
アルバムタイトルは、『リスト・オブ・ライツ・アンド・ブーイズ(list of lights and buoys)』。誰から勧められたわけでもなく、たまたまCDショップのジャズ・コーナーの片隅で見つけたのですが、スリーブに書かれていた『静謐なうた』というコピーと「ルーネ・グラモフォン(rune grammofon)」という私にとって信頼できるレーベルからリリースされていることが購入への動機づけとなりました。
アーティストは、「スザンナ・アンド・マジカル・オーケストラ(Susanna and the magical orchestra)」という新人です。アーティスト名に「オーケストラ」と入っていますが、実際には歌手スサンナ・ヴァルムルー(Susanna Wallumrod)とキーボード・プレイヤーのモッテン・グヴェニル(Morten Qvenlld)によるデュオです。アルバムの構成は、オリジナルが9曲、カヴァーが2曲。
優れたアルバムは、イントロダクションから人を惹き付けるものをもっていることが多いのですが、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)のカヴァー「フー・アム・アイ(Who am I)」で始まるこのアルバムも例外ではありません。彼らの非常にパーソナルな解釈で再構成されたこのカヴァー曲は、スサンナのアーティストとしての実力を示すにはあまりあるほどです。センシティブな低い歌声は、部屋の冷たい空気の中で私の感覚に直に響いてきます。 つづくジョリー・パートン(Jolly Parton)のカヴァー「ジョリーン(jolene)」は陽気だった気分をいっぺんにメランコリックの極限まで追い込むかのような歌声で私の心に迫ってきます。彼女独特の歌声からひろがるサウンドスケープに私は完全に引き込まれてしまいました。デビュー間もないデュオですが、ビョークと比肩される日も遠くはないだろうと思います。
3曲目以降のオリジナル曲も印象深いつくりになっています。静謐であるだけでなく、幽玄で、壮絶で、耽美的で、寂寥感あふれる重心の低いヴォーカルが強烈です。
ちなみに、キーボード・プレイヤーのモッテン・グヴェニルは、同じくルーネ・グラモフォンからアルバムをリリースしている「イン・ザ・カントリー(in the country)」の活動に専念するために、『リスト・オブ・ライツ・アンド・ブーイズ』を最後にスサンナとの活動を解消するとのこと。ちょっと残念。ただ、「イン・ザ・カントリー」もアコースティックな音づくりで新鮮な印象を与えてくれているのでこれからも注目していきたいバンドです。

i am trying to find myself. sometimes that’s not easy. -marilyn monroe

つまり今自分が立っている地点から世界を眺めるということだけではなく、少し離れたよその地点から、世界を眺めている自分の姿をも、それなりに客観的に眺めることができるようになったわけです。 ものごとを自分の視点からばかり眺めていると、どうしても世界がぐつぐつと煮詰まってきます。身体がこわばり、フットワークが重くなり、うまく身動きがとれなくなってきます。でもいくつかの視点から自分の立ち位置を眺めることができるようになると、言い換えれば、自分という存在を何か別の体系に託せるようになると、世界はより立体性と柔軟性を帯びてきます。これは人がこの世界を生きていく上で、とても大事な意味を持つ姿勢であるはずだと、僕は考えています。読書を通じてそれを学びとれたことは、僕にとって大きな収穫でした。 村上春樹(2015)『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング p209

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